サラリーマンなもので年末調整してます。
毎年やることですがイマイチ理解していないまま記入提出し、
翌年またわからないという繰り返しをおよそ20年繰り返してきております。
サラリーマンです。
最近では、働くということの意味を考えることが多いのですが、
なんのために働くのか、ということになると生きる為、
金を稼ぐ為に、となるわけですが、あくまで方法や手段なので、
もしも働かないで良い程のお金があったら、誰しもが
迷うことなく働かないだろうなと私は思うのですが、
そうでもない人たちもいるようなのです。
「やりがい」などというもの、だそうで。
なにそれ?おいしいの?って感じですが…
勿論その価値観は自由だし、尊重されるべきものです。
働きたくても働けない人がいます。
働きたくなくとも働かなくてはいけない人がいます。
働かなくてよいのに働いている人も、働かない人もいます。
いろんな人がいて、それぞれの環境が違います。
人が人を理解し合うなどということは私はすでに諦めていますが、
それぞれの価値観をまさか分かり合えるだろうと共有しようとする時に生じたズレは、
その関係性に深く影を落とすことになるわけです。心の扉は閉じるのです。
違うのです、人は人と違うのです。わかりません。わかるはずもありません。
わかり合おうなんて傲慢です。一方的な押し付けです。
人を諦めることです。諦めなさい。
諦めることでそのような傲慢な思い上がりに囚われることもありません。
このように私は思うように努め、諦めているのです。
人はひとりでは生きていけないので、分かろうとすることは大切で、
思いやることも大切なのは承知の上ですが、完全にわかるなんてことは傲慢で、
わかろうとする、わからないけれども。というのが正しい状態だと思っています。
完全にわかることはないけれども、理解しようと務める、わかるはずもないんだけれども、
という、グレーで中途半端で曖昧な状況で折り合いがついているのが社会なのだと、
言い聞かせているのです。
なので時折諦めていない人と出会うと、扉を閉めてわかってくれるなと、
言いたくなるのです。周りの知人は私のことを諦めていることでしょう。
何が言いたいのか、自分でもわかっていませんが、
働かなくて良くなるほどのお金が欲しい
というのは誰しも同じで分かり合えるのかもしれませんね。